Yukky流 西国三十三カ所の巡り方 


西国33カ所巡礼レポート
 
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西国巡礼の起源〜徳道上人
 形態付けられていない原始的な巡礼は、古神道に基づいてあったかも知れないが、本格的な巡礼としては西国33所観音巡礼が最初のもだとされている。
 最初に巡礼を行ったのは大和國長谷寺の徳道上人だといわれている。播磨國揖保郡生まれの徳道上人は、11歳で父を19歳で母を失い、両親の菩提を弔うために21歳のときに大和國初瀬の弘福寺で出家した。76歳のときに楠の霊木から十一面観音を刻み、これを本尊として長谷寺を開創した。晩年は長谷寺門前の法起院に隠棲し、80歳で松の木の上から法起菩薩として去ったといわれている。
 さて、徳道上人が三十三所巡礼を開いたいきさつについては次のような伝説がある。
 62歳のある日、徳道上人は病のため仮死状態になってしまう。そのとき、夢の中で閻魔大王と出会い、「おまえはまだ死ぬことは許さない。三十三カ所の観音霊場を造り、人々に巡礼を勧めなさい」と言われ、起請文と三十三の宝印を授かった。上人は仮死状態から蘇り閻魔大王から賜った「三十三の宝印」に従い、三十三霊場を定めたとされている。しかし、このときは三十三霊場は世の人の信用を得られずに巡礼は発展しなかった。そこで、上人は機が熟すのを待つため、その宝印を摂津國中山寺の石櫃に納めたとされている。
 このような伝説が残っているので、長谷寺は三十三所の根本霊場と呼ばれ、徳道上人が晩年を過ごした法起院が番外札所とされています。
再興〜花山法皇
 花山法皇は、冷泉天皇の第一皇子として生まれ、17歳で円融天皇より帝位を譲られ第65代花山天皇となられました。しかし、最愛の弘徽殿女御の死により無情を悟って元慶寺に於いて落飾(出家)され、わずか2年、19歳の若さで皇位を退き法皇となられました。その後、比叡山で修行し、紀州熊野那智山に参籠した際に法皇の前に熊野権現が姿を現し、徳道上人が勧めた観音霊場が人々から忘れ去られてしまっていることを示し、これを再興するように伝えた。法皇は徳道上人が埋めたあの宝印を掘り起こし書写山の性空上人、河内石川寺の仏眼上人、中山寺の弁光上人を伴って熊野那智山を1番として三十三の霊場を巡られた。このとき、徳道上人が三十三霊場を定めてから270年たっていた。その後、西国巡礼が盛んになったと伝えられている。この伝説では花山法皇は西国札所中興の祖とされ、花山法皇が落飾(出家)された元慶寺、晩年を過ごし41歳でその生涯を閉じた摂津國花山院は巡礼札所番外寺院とされています。
史実としての始祖〜行尊
 ここまでに書いた徳道上人と花山法皇の話はあくまで伝説である。花山法皇の場合は西国巡礼以外にも、「放浪する天皇」のイメージで各地の民間信仰で祖として格付けされている例は多い。では、史実として残っているものはというと、「寺門高僧記」第四に収録されている圓城寺(三井寺)の僧・行尊による「観音霊場三十三所巡礼記」が最初である。行尊が巡礼したのは1090年のころとされており、徳道上人より370年ほどあとの話しである。このときは第一番は長谷寺であり、第三十三番は千手堂(三室戸寺)であった。その後。三井寺の覚忠が巡ったときは、第一番が那智山であり、第三十三番がは三室戸寺でした。このときの巡礼は番付けは異なっていますが所属寺院は現行と同じで、今日の巡礼を決定的なものとしたということで歴史的意義が深いとされています。その後、東国で西国巡礼が盛んとなり、お伊勢参りや熊野三山参拝をした後で参るのに都合がいいということで第一番が那智山・青岸渡寺に、東国への帰路につくのに都合がいいということで三十三番が谷汲山・華厳寺になったといわれています。また、その帰路に寄りやすいので信濃國の善光寺と北向観音が結願御礼の寺院となったという説があります。
札所の意味
 なぜ、西国霊場のことを札所というのでしょうか?それは、もともとは本尊を安置する堂宇の柱などに、金属製や木製の納札に祈願、名前、生地などを記して打ち付けたことから札所と言われるようになりました。そのため、札所寺院を参拝することを「打つ」と言います。現在ではこのように札を打つことはなく、紙の納札を納札箱に納めるので実際に打つことはありませんが。その札所を打った証として御朱印を頂きます。
御朱印
 御朱印は、お納経とも呼ばれています。お納経と呼ばれていることから分かるように、本来は観音経などを浄写して寺ごとに納め、その証として朱印を受けていました。しかし、現在では所定の料金を納めるだけで朱印がいただけるので、気軽に巡礼ができるようになっています。この、朱印は徳道上人が閻魔大王から授かった三十三所の宝印が起源といわれています。一般には三つの印で構成されていて、右上に札所番付の札所印、中央に札所本尊の梵字を刻んだ本尊印、そして左下には札所名の寺院印が押され、本尊名などが墨書きされます。この御朱印は札所本尊の分身とされています。
御詠歌
 御詠歌というのは、巡礼者が仏や霊場をたたえて歌う歌のことで、西国札所の場合は花山法皇が札所を巡拝なされた折りに各霊場に一首ずつご奉納になられた和歌が起源であると言われています。
数にまつわる話し
 なぜ、観音霊場の数は33なんでしょうか?これにはちゃんと理由があります。これは、法華経(妙法蓮華経)のなかの観世音菩薩普門品(ふもんぼん)いわゆる観音経で、観世音菩薩が33の化身をして人々を救うという思想からきています。では、なぜ秩父の観音札所だけは34なんでしょうか?もともと観音霊場は近畿地方から始まりました。その後、関東地方の板東三十三所が開創され近畿地方の三十三所には「西国」の文字が冠されるようになりました。そして、室町時代になって秩父巡礼が開創され、秩父観音霊場の割り込み運動がおき、これの打開策として一カ所増やして三十四カ所として西国、板東、秩父を合わせて日本百観音が提唱されたためです。
 話題は変わりますが、ガイドブックを見ると観音様の縁日が十八日であることに気付くかと思います。これにも起源があります。二十三番札所勝尾寺創設のとき、「妙観」という観音化身の比丘(びく)が白檀香木をもって七月十八日から八月十八日の間に十一面観音を彫刻して本尊としたことに由来しています。


このサイトを作成するにあたり、昭文社刊「西国33ヶ所巡り」およびリンク集にある西国33所札所会ほか各寺院のホームページを参照させていただきました。